東井義雄—仏の声を聞く

2023年6月12日

左が法語カレンダー(真宗教団連合)、右がほのぼのカレンダー。ほのぼのカレンダーは、毎年1月の親鸞聖人報恩講に参詣した際にお寺さんから頂いています。

例年ほのぼのカレンダーには言葉が添えてあり、初めて目にした時は相田みつを?と思ったら違いました。東井義雄(とういよしお)氏の詩の一節でした。カレンダーの経歴紹介によると、真宗のお寺の生まれで高名な教育者、そして「篤信の念仏者としても知られる」とあります。

YouTubeに「仏の声を聞く」というタイトルで、東井氏がテレビに出演した動画がアップされています。1990年、77歳の時の放送。1時間の動画ですが、見始めたら内容に引き込まれてあっという間でした。大きな反響を呼んだそうで、放送内容は書籍にもなっています。

最初のほうを紹介します(話の順序は放送の通りですが、言葉を少しまとめたり省略しています)。続きは是非動画を見てください。

が師範学校2年生の夏休みの時、漢文の本を1冊以上読むようにと宿題が出た。家は貧しくて漢文の本などなかったが、「うちは寺だ、お経はある。お経だって漢文だ、浄土三部経を読んでやろう」と。大無量寿経から始めて上巻を和文に書き直し終わって下巻に進み、そうして大変な言葉にぶつかった。

独来独去 無一随者 どくらいどっこ むいちずいしゃ (仏説無量寿経)

独り来り、独り去り、一の隨う者なし

世界中にこんなに人間がたくさんいるのに、いざとなったら人間ひとりぼっち。私という人間は世界に一人しかいないんだ、と思った途端、小学校1年生に入ったばかりの5月に亡くなった母の、最後の呼吸音が鮮やかによみがえってきた。「お母ちゃんが命懸けで教えてくれたことを忘れていた、お母ちゃんすまなんだ、人間ひとりぼっちなんやな」と呟きながら読み進めると、また大変な言葉にぶつかった。

身自當之 無有代者 しんじとうし むうたいしゃ (仏説無量寿経)

身自らこれにあたる、代る者あることなし

この大変さを代わってくれる者がない、みんな人間は自分の荷物がどんなに重くて辛くても、自分で背負って生きるしかない。「代る者なし」は、たまたま無かった。「代る者あることなし」は、金輪際ありっこ無しということなんです。

親でも子どもに代わって生きてやることはできない、仏様でも代わって生きてくださることはできない。ひとりぼっちなんですね。これは教育を考える上でも宗教の上でも、ずっと私を貫く大事な考え方になってくれた。今にして思えばこの宿題は、如来様のお手回しであったのではないかと思われてならない。

仏様でも私に代わって生きてくださることはできない。私の荷物は私が背負って生きて行くしかない。因果の道理は仏様でも曲げられないからです。迷いの世界で苦しみ悩んでいる私をご覧になって、どれほど可哀想だ、不憫だ、代わってやりたいと思われても代わることはできない。本当に私はひとりぼっちです。

けれどもひとりではなかったと、ある時気づかされるのです。こんなご法話を思い出します。私の人生は川で、ずっと流れているのです。遠い過去から生まれては死に生まれては死にを繰り返して流れているのです。途中で川幅が狭くなって干上がりそうになったり、蛇行して遠く迷ったり、ゴミで汚れたり、澱んだドブ川になったり。海は遠く、なかなか辿り着けません。そんな川に、岸はずっと寄り添っているのです。岸が無い川はありません。どんな川にも岸はあります。そして川を川たらしめているのは岸なのです。岸の支えがなかったら、川は存在できないのです。

川に沿って岸がある 私に沿って本願がある

いつまでも 埒のあかない 私に沿って本願がある

東井義雄

阿弥陀様は、常没流転の私に代わってやることはできないと泣かれ、そうして必ず救うという本願をたててくださいました。海に注ぎ込むまで岸となって私に寄り添い、決して離れることはないのです。阿弥陀様のお慈悲の中、ひとりぼっちだけど決してひとりではない人生を生きてゆくのです。 合掌

浄土真宗東井義雄

Posted by kuro